敬老の日の花カサブランカ

おはようございます。
になれなです^^

今日は、102歳でも現役だった祖母への
プレゼントを考えました。
私の祖母は、明治生まれでした。

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亡くなったのは、平成9年4月でした。
祖母が生まれた7月7日の七夕まで
生きてくれたら103歳だったのです。

亡くなる直前まで現役でした!

亡くなった祖母への敬老の日のプレゼント

祖母は、末っ子の母を45歳で産みました。
その母は、以前もお話ししましたが、
54歳の若さでこの世を去りました。

その時、祖母は、99歳でした。(あと数日で100歳)

母が亡くなってすぐに布団の上に横たわっている母の
(まだ御棺が届く前でしたので)顔を撫でながら
「そっちにすぐに行くから待っているんだよ」と
小さな声で囁きながら涙を流していました。

その光景に声すらかけることができずにいました。

母が亡くなってから葬儀など
一連の流れの中で
一番記憶に残っているシーンです。

年老いた自分よりも子どもが先に亡くなるというのは
どんなに辛いことでしょう。

先に亡くなった母も「親不孝」と
辛かったと思います。

二人の思いを感じで、とても辛かったです。
母は、多発性の癌で亡くなったので
ある程度覚悟はできていましたが、
祖母の気持ちはその時まで思いやることすらできませんでした。

その時に私は20代でしたので
まだ、祖母に甘えていたのです。

今思えば、99歳の祖母を
頼り切っていたような気がします。

葬儀の後にお寺の案内で、3日後、1週間後・・・
と、決まった日に身内が集まって故人を偲びますが、
それも年老いた祖母の指示でやりました。

振る舞う料理は、半分は注文でしたが
半分は手作りでした。(田舎の習慣です)

20代の妹と二人、両親に取り残され
その99歳の祖母を頼るしかなかったのです。

なので、料理の味見なども
祖母に頼り切っている状態でした。

祖母は、その後も私たち姉妹に気を配って
白内障で目もあまり見えないようでしたが、
2キロの距離を毎日歩いて両親の住んでいた自宅に来ていました。

私も妹も嫁いでいたので
実家は誰もいない状態でした。

その実家に祖母は、自分の自宅(母の実家)から
手押し車(母と一緒に私たち姉妹が数年前にプレゼントしたもの)を
押してやってきて、仏壇にむかって話をしていました。

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私も妹も祖母は昼前から夕方までいることが
わかっていたので、仕事の時間以外は
一緒に過ごすようにしていました。

おばあちゃんは、亡くなる直前まで愛情をくれました

亡くなる2週間前でしたが
私のアパートの下で祖母が3階に住んでいる私を
道端から呼んでいたそうです。
近所の方から聞きました。

私は仕事で留守だったので
申し訳なかったです。

その後、時間があるときには
実家に行き、祖母を待ちましたが
中々、会えませんでした。

1週間待ちましたが、ある日、
タイミングが悪くて
会えないのではないことに気づきました。

それは、時々両親に供え物をしてくれていた祖母でしたが
1週間それがなかったからです。

すぐに叔父に問い合わせたら、
家で過ごしているけど、
出歩く元気がないこと、
危ないので家族が外に
出さないようにしていることを知りました。

危ないというのは、出先で倒れでもしたら
ということでした。
その時は、もう100歳を超えていましたから
仕方がありません。

数日して、会いに行ったときは、
床につき起き上がれなくなっていました。

家族はまだ長生きしてほしかったので
病院に入院させましたが
それから3日後くらいに亡くなりました。

出歩くのを止めなければ
まだまだ、生きていたのではと思うこともありました。
母のところに行くことが生き甲斐だったのかもしれません。
そうして、そこに行けば、私たちやひ孫に会えあるから。

私たちが、いつでも祖母のところに
行っても良かったのっですが
他の家族もいて祖母ばかりではないので、
遠慮していました。

敬老の日~亡くなった祖母と母へのプレゼント

白いお花をアレンジしてもらって、
二人のお墓にお参りしたいと思います。

母はカサブランカが大好きでした。
祖母はユリの花が大好きでした。

時期的にそれらがあるかは微妙ですが、
そのお花をアレンジしてもらいます。

あとは、二人が向こうの世界で
仲良く語れるようにお饅頭とお茶と持って行きます。

私は、亡くなった祖母に「愛情の深さ」を学びました。
だから、自分の子どもたちに愛情を厳しくも優しくも
かけて行きたいと思います。

そんな祖母に亡くなって20年近くになりますが
感謝の気持ちを贈り続けています。

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